―流星の追憶― 

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砂上の夢

 
どうもー、こんばんは、星詩です。
以下の記事でも呟いてましたが、テラタタ小編、続きが書けたので、よっこらよっこらとアップしにきました。
前回…というと、第二章「追想」が悲劇まっしぐらだったのに比べ、
拍子抜けするほどの穏やかな日々と日常です。
二人の恋が始まる少し前くらい。
いや、もしかしたら始まっているのかもしれませんが。


Meteos→Recollection→Ti Erraからでも確認出来ますので、
ブログじゃ読みにくいよーって方はそちらから読むことをお勧めしますですです。
お楽しみ頂ければ幸いです。


…恐らく、ですが、この話の続きがアップされるとすれば、
来年の春以降になるかと思います。
気長に、のんびりのんびりと、待っていただけると、幸いです。
…まあ、二章がアップされたのも2月…もはや半年前…ですし、気にしない!気にしない!


それでは、追記からどうぞ。
もしかしたら9月頃にまた一度くらい顔を見せるかもしれませんが、どうだろうなあ…。







 珍しく団体客が食事をしていった昼下がり。カウンターから奥まったところにある小さな厨房で、摘みあがった食器の山を黙々と拭きながら、テラは頭の中でラッサ(アナサジ地上族の間でよく用いられる算盤に似た計算機。二色の小石の組み合わせで計算が出来る)をぱちんぱちんと弾いていた。
 季節は晩秋。北の町々で商売を終えた隊商や行商人が、極寒の冬を逃れる為にこの町を通って南へ下っていく季節も、そろそろ終わる。今日食事をしていった毛皮商人達も、かなり日程の遅れを気にしていたから、今年はもうこれ以上の隊商集客は望めないかもしれない。……ということは、これから続く冬の季節を、なんとか今日までの稼ぎで繋いでいかなくてはいけないのだ。うちは唯でさえ小さい宿屋兼酒場に過ぎないし、冬になったら、今年も宿のほうは完全に開店休業状態になるだろう。遮るもの無しに凍った風が吹き荒ぶ真冬の荒野を旅しようなんて物好きはいない。というか、いたとしても、町へ着く前に命を落とすだろうから意味はない。
 今年もまた何処からか内職の仕事を貰うとして、酒場の方でも、メニューに暖かい飲み物や料理をもう少し増やしてみるかなぁ――そんなことを考えつつ溜息を付いて、テラは最後の大皿を食器棚に押し込んだ。冷たい水のせいですっかり痺れてしまった両手を頬にあてながら、カウンターへ声を掛ける。
「ネリーさん、食器、洗い終わったので、客室の掃除してきますね。もうしばらくカウンターお願いします」
 カウンターと厨房を仕切る薄い布扉の向こうから、あいよー、と気の抜けた声が返ってきた。多分また酒瓶を開けているんだろう。
 本来のこの店の女主人…というか、サーニャの母親は、いつのまにか店の経営をテラに丸投げしていて、だいたいいつもカウンターで酒を飲んでいる。
「テラー、グリッツってまだ倉庫に置いてあるー?」
「今、ネリーさんが飲んでるので最後ですよ」
「ええっ、嘘っ、こないだ買ったばっかりだと思ってたのに! …しょうがない、後で買ってくるかぁ……」
「あんまり余裕ないんで、シャンディで我慢してください」
「ええーっ!? 酷いなぁテラちゃん…。昔はあんなに優しくて良い子だったのにー…」
 カウンターからブツブツ聞こえてくる声をさっくりと黙殺して、テラはバケツに少しだけ水を張った。バケツと箒と布巾とを器用に抱え、客室へ続く階段を登ってゆく。
 半分くらいまで登ったところで、ドアの鈴が鳴った。反射的に足を止め、振り返ると、ネリーの暢気な声が聞こえてきた。おかえりぃ、という言葉があったから、多分サーニャだ。今日は随分帰りが早いな、と内心で首を傾げつつ、踵を反す。が、続けて階段を三段も上がらない内に、テラはまた足を止めた。
「財布をスられたぁ!?」
 ネリーの大声が響く。眉を潜めると、テラは一気に階段を駆け下りた。
「サーニャ? どうし……っ、たんですか…?」
 心配が先走り、階段を駆け下りざまに声をあげていたテラは、酒場に顔を覗かせて固まった。
 カウンター越しに、ネリーと向かい合っているのはタータだった。騒々しい足音と声とに、ネリーはなにごとかと目を見張ってテラを見たが、タータは考え込むように俯いたままだ。表情は曇っていたが、青ざめてはいなかった。
「市場で子供にやられたんだってさ。財布を出した瞬間に、風のごとくサッと」
 ネリーが説明しながら肩を竦める。やっと顔を上げたタータが、情けなさそうに頷いてから後を引き取った。
「全財産取られた訳じゃないので、宿代は払えるんですが……」
「ほら、タータさん、明日出発予定だったろ? だから今日食料やら衣料品やらを結構まとめて買い込むつもりで、財布に結構まとめた額のお金を入れちゃってたんだってさ。まあ、なんとも気の毒にというか……シャルナの微笑みあれ、っとね。今日はおかず一品おまけしてあげるよ」
「ありがとうございます…」
 (少々なげやりな)神に杯を捧げる仕草の後、ネリーが力強くタータの背中を叩く。苦笑するタータは、勢いに圧されて、若干前のめりの体勢になっていた。
 多分、スられた財布はもう戻ってこないだろう。スリを働く人なんてこの町にはゴロゴロいるし、保安官だって形だけのようなものだから、事情説明するだけ時間の無駄だ。実質、諦めるくらいしか選択肢はない。タータもそれを分かっているのだろう。取り乱していないところをみると、以前にも似た経験があったのかもしれない。――それにしたって、出発前にまとまったお金が無くなるのは、かなりの痛手だろうに……。
 少し考えてから、テラは一度厨房に引っ込むと、果汁を絞ったものをグラスに注いで戻ってきた。きょとんとしているタータに、手振りでカウンターの椅子を勧める。
「こんなものしかないですけど。甘いものがあれば、少しは気も紛れますよ」
 目を瞬いて、テラとグラスを交互に見ていたタータが、照れたように笑った。
「ありがたいなぁ。正直、結構きつかったんですよ。よりによってというか…なんでこんな時に、しかも子供相手にあっさりスられるなんて、って」
「タータさん、雰囲気がのんびりしてるし人良さそうだからねえ。目ぇつけられちゃったんだろうよ。あ、そうそう、ジュースは一杯2――」
「どこに財布スられた人相手に金目当てで飲み物出す人がいるんですかっ」
 にこにこ笑いながら見事にふっかけようとしているネリーを、テラは慌てて片手で押し留めた。
「何さぁ、ちょっとした冗談じゃない」
「ネリーさんはタイミングって言葉を勉強した方がいいんです」
 漫才のようなやりとりを繰り返す二人に、タータが小さく笑った。甘酸っぱい果汁を何口か口に含んでから、ネリーを見上げる。
「ネリーさん。こんな訳なので……すいませんが、宿泊の延長をお願いできますか」
「ん? んんー…そう、ね。旅支度が出来なきゃ出発出来ないしねえ。……テラ、ちょっと、帳簿持ってきてくれない」
 目を泳がせて、ネリーが酒瓶を持っていない方の手を宙に差し出す。テラは心の中だけで溜息をつくと、カウンター奥に向かいながら、彼女が調べようとしている事柄を先に告げておいた。
「今宿泊してるのはタータさんだけで、多分これから先しばらくは泊まりのお客さん来ないですよ。客室はガラガラです」
「えっあ、そうだったっけ? じゃあ大歓迎だ! どれどれ、タータさんはー、今日で宿泊三日目か。どれくらい延長する?」
 テラが放り投げた帳簿を空中でキャッチして、ネリーがぱらぱらとページを捲った。タータが、そうですね、と呟いて小さく唸る。ペンを構え、にこやかに首を傾げてみせるネリーと帳簿とを交互に見て、一度断りをいれ、懐から地図帳を取り出す。表紙がすっかり擦り切れて、ぼろぼろだ。
「北へ行く予定なんですが…この先、ここより大きい町はほとんど無いんですよね?」
「北って……この季節に? 何処まで行くんだい」
「テキーラの町まで行きたいんです」
「テキーラぁ?」
 ネリーが素っ頓狂な声を上げて、タータをまじまじと見つめた。
 テラも思わず眉を潜めると、カウンターに広げられた地図帳を覗き込んだ。
「そうですね、それは…この町から北に行ったって何にもないですよ。せいぜい小さな村が転々とあるくらいで。しかも今の季節だと、冬の嵐から逃れて、かなりの村が住民まるごと南へ降りちゃってます。ここがコニャックで、北へ行くとしたら次の村まで徒歩で三日。其処までは行けたとしても、その先は山一つ超える旅になります。そこからはもう野宿での旅は無理ですよ。寒すぎて」
 指先で、この町と北の町々とをなぞってみせながら、テラはちらりと上目だけでタータを見た。――北へ旅しているとは言っていたけど、この季節にテキーラまで行くなんて聞いた事もない。
 この町、コニャックと、テキーラの間は山岳地帯で隔てられている。徒歩(としか考えられない)なら20日は掛かる距離だ。そもそも、この季節に北の地方で野宿なんてしたら、間違いなく凍え死ぬ。旅をしているのなら、それくらい知っていそうなものなのに。……それとも、知っていて、敢えて?
「……今の季節に旅を続けるとしたら、この町を少し南下してから西の街道を通って、ジンの町に行くか……春まで待つか。少なくとも、今からテキーラに向かうのはかなり危ないですよ。北へ行く隊商ももうないですし」
 タータは、眉を寄せてじっと地図帳を見つめている。目の焦点が遠い。地図帳の向こうに広がる、実際の荒野の光景を想像しているのだろう。
「今の季節、テキーラへ旅行なんて、酷い酔っ払いでも思いつかないと思うけどねぇ」
 ぽつりと、ネリーが呟いた言葉に、テラは珍しく心から賛同した。
 随分長く無言で考え込んでから、タータはひとつ溜息をついて、顔をあげた。
「……大分、長期の宿泊をお願いしても?」
「春まででも大歓迎だよ。さっきも言ったとおり客室はガラガラなんだからさ」
「じゃあ、それで、お願いします。それから……この近くで、仕事を貰えそうなところはありませんか?」
「仕事? あー、そうね、そりゃ必要だわね。大丈夫、宿代は長期割引きかせとくからさ。んー、そうねえ……」
 ネリーが唸りながら顎に手をあてた。
「うちは人手が足りてるし、そもそも余裕が無いしねぇ。タータさん、なんか特技とかあるかい?」
「そうですね……。特技といえるかは分からないですが、薬草と医術の心得なら、多少は」
「なら、うちの裏通りのロッソじいさんのとこに行ってみな。小さい薬屋だけど腕は確かだし、最近年の波が辛いからって、良い具合にこきつかえて役に立つ若者を探してるよ」
 タータが、ほっとしたような表情で笑った。
「良かった。残りの旅費じゃ、二週間泊まるのがやっとだったので」
「思わぬ長期滞在になっちゃったねぇ。ま、何にもない町だけど、ゆっくりしていっておくれよ。……テラ、ほら、ぼさっとしてないでタータさんをロッソじいさんのとこに案内してやんな」



 簡単な事情説明をしただけで、ロッソじいさんは一言返事でタータを雇ってくれた。
 店内の在庫説明だとか、薬草についての談義だとか、ロッソじいさんがタータの薬草の知識に感心している声だとかをしばらく店の隅で聞いてから、まだ大分長くなりそうだと判断してテラは席を立った。
 先に店へ戻ってますね、と声を掛けると、ロッソじいさんと話し込んでいたタータが、慌てたように顔を上げた。
「テラさん、」
「はい?」
「あの、ありがとうございました。本当に色々……さっきの、ドラーニァのジュースも。貴重なものでしょうに」
 予想していなかった言葉に、テラは振り向きざまで少しだけ固まった。
「…え、ああ、気にしないでください、あれくらい。サービスってやつですから。それに、うちはあんなジュース一杯くらい物の数に入らないくらい、摘み飲みしてる人がいますし……じゃなくて、ええと、そうだ、夜の11時までには帰って来てくださいね。それ以降は戸締りしちゃうんで、宜しくお願いします」
 宿の娘らしく、にっこりと笑って手を振り、ぱたんと後ろ手に扉を閉める。
 ごつごつした木の扉に寄りかかったまま、テラは何度か瞬きを繰り返した。
「……変な人」
 いや、律儀な人と言った方が良いんだろうか。タダで出した飲み物にあそこまで感謝されたのは初めてだ。この町の人だったら、一般的な旅慣れた隊商客だったら、大喜びで飲み干して、あとはケロっと忘れるのが普通の反応なのに。……そもそも、ドラーニァはこの町特産の果物で、あまり流通もしていないから、名前も知らない人の方が多いはずなのだが。

 宿と酒場で働きながら、沢山の人と出会い、見送ってきた。不思議な人、気に掛かる人だって何人もいた。――カウンターに立ち続けて、もう三年になる。三年を掛けて、下手な詮索はあまり役に立たないどころか、とばっちりが来る原因になることも学んだ。
 だから今回も、自分から色々と首を突っ込むつもりはない。……けれど、それでも、貧乏な旅人にしか見えない自分と同じ年くらいの青年(しかも旅慣れた人特有のしたたかさや用心深さが0)が、わざわざこの季節に北を目指している理由は、気になった。
(もし、予定通りに出発していたなら、)
 彼は、間違いなく、街道の途中で死んでいたはずだ。死ぬ為に行くつもりだったんだろうか。しかしそれなら、長期滞在の為にこうして仕事を探しているはずがない。
(まあ、冬中いるんだし、そのうち何か分かるかな……)
 一度、扉の向こうを振り返ってから、軽く頭を振る。沸いてくる疑問をいくつも追い出しながら、テラは宿へ戻った。


 季節は早足に過ぎていった。
 日に日に風が冷たくなって、宿の水桶に一日中氷が張るようになって間もなく、猛烈な冬の風嵐(――初冬の頃、アナサジ大陸北西部を襲う非常に強い風。数日の間吹き荒れ続ける)がやってきた。毎年恒例で慣れてはいるが、やはりきついものはきつい。テラがせっせと暖炉に薪を投げ入れていると、外に出られず暇を持て余しているらしいタータがちょくちょく降りてきて、手伝ってくれた。加えて、身体を動かしている方が気が紛れていい、なんて朗らかに言うものだから、ネリーが大喜びで宿の力仕事(ベッドの修理・倉庫の大掃除・壁の隙間塞ぎetc)をタダで提供して、もとい押し付けて、散々ひっぱりまわしてこきつかう始末だ。
「……タータさん、そんなにネリーさんの我侭きかなくていいですよ」
 嵐が続いて3日目。夕日が沈み、一気に薄暗くなった厨房の土間で、ランプの灯を頼りにぱこんぱこんと薪を割っていたタータに、テラは溜息交じりで言ってみた。
「あ、……すいません、迷惑でしたか?」
 薪を割る手を止めて、表情を曇らせたタータに、内心で頭を抱える。
 だからなんでこういう返事を返すような思考回路を持ってるんだ…!
「いや、その、こっちは仕事が減ってそれは大助かりなんですけど、一応、お客さんなのに、こんなに手伝ってもらうのも」
「あー……いや、その、僕、こんなに続く嵐って、初めてで。客室に篭もって、風の唸りだけ聞きながら一人で本を読んだりしてると、気が塞いできちゃうんですよ」
 タータの口調が沈む。照れ隠しというよりは、本当に参っているようだった。本人もそれに気づいたのか、ふっと笑顔を浮かべ、誤魔化すように手を振ってみせる。
「だから、こうして動いてる方が気が楽なんです」
 そうですか、とだけ小さく返事を返して、テラは視線を外した。
 窓に打ち付けた板の間から、空を見上げる。西の空には、夕暮れの赤い光が微かに残っていた。蒼い夜の闇が少しずつ深く広がり、気の早い星はもう光り始めている。――今日も、相変わらず、触れたら手を切りそうな快晴だ。風の唸りはひとときも止まない。何処かで、板と板がぶつかる音も不規則に聞こえる。二階の窓に打ち付けた板のどれかが外れかけているのかもしれない。窓が割れる前に直さないと……。
 吐息が白く舞う。羽織っていた上着をさらにきつく巻きつけるが、どうしようもなさそうだった。今夜の冷え込みもきついものになるだろう。
 ぱこん、と薪が割れる音を聞きながら、テラは振り返らずに口を開いた。
「……嵐が止んだら」
「はい」
「この町で一番安い宿、教えましょうか」
「はい?」
 薪割の音が止まった。
「タータさんが最初うちに来たとき、うちはこの町でベストファイブに入る勢いで安いって、言いましたよね。……あれ、嘘じゃないですけど、嘘です。この町、宿がそもそも5つしかなくて、うちは下から3番目。町の外れの方に、もっと安い宿、あるんですよ。ちゃんと。……ただでさえ、お金、きついでしょうし。まだ旅を続けるのなら」
 振り返ると、タータが手斧を薪に突き刺した体勢のまま、自分をじっと見つめていた。彼の、澄んだ亜麻色の瞳から微かに目を逸らして、テラは続けた。
「少しでも旅費を節約出来たほうが、いいでしょう?」
「………」
「…あっ、一応先に言っときますけど、迷惑だから出て行けとかそういう話じゃ全然ないんで、誤解しないでくださいね」
 慌てて付け足した言葉に、考えるように黙り込んでいたタータが、ふっと笑った。
「テラさんは、優しいんですね」
「そんなんじゃないですよ。ただ、ちょっと、…良心の呵責というか」
「そういうのを優しいって言うんだと思います」
 ぱこんっ、と斧に刺さっていた薪を割ってしまうと、タータは嵌めていた分厚い手袋を外し始めた。
「ありがとうございます。本当に。でも、僕はここが気に入ってますし、ロッソさんのお店にも近くて便利なので。…宿代が安かろうと、町外れからここまで毎日歩いてくるのはちょっと嫌ですよ。毎日こんなに寒いのに」
「寒いの、苦手なんですか?」
「それはもう。自分でも、旅には向いてないタイプだと思います」
 ふと、タータが言葉を切って、酒場の扉へ顔を向けた。テラも、風の唸りに紛れて聞こえてきた音に気づき、目を瞬く。
「……まあ、珍しくもないか。もう三日目だしなあ」
 テラが独り言を呟いてから数拍の間を置いて、扉の鈴が騒々しく鳴り響き、激しい風と重なった足音が一気に飛び込んできた。
「くぁーッ、寒ぃ寒ぃ! 死ぬかと思った!」
「おおい、ねぇちゃん、きっついシャンディをジョッキに4杯! 凍え死んじまうよ!」
 分厚い毛織物を頭まで被った若者が四人。安い木製の床板の上で、足音が太鼓のように反響する。椅子を引く音とテーブルを叩く音、毛織物をばさばさと叩く音で、死んだように静まり返っていた酒場は、あっという間に息を取り戻した。
 やれやれ、と言うようにテラはタータに目配せをしてみせると、足早に酒場へ出て行った。続いて、トトトッ、と背後から軽やかな足音が響き、客室の掃除をしていたサーニャが階段を降りてくる。手早く料理の支度を整えながら、土間に積み上げられた薪の束へ目を向けたサーニャは、感嘆の溜息をついた。
「タータさん、もう薪割り終わったんですか? 凄いなぁ。母さんが起きたら喜んじゃいますよー」
「ええ、まあ、これくらい全然……僕は部屋に戻ってた方が良さそうですね」
 サーニャが、はたと手を止めてタータを見た。厨房の隅、タータが壁にくっつくようにして道を譲ってくれていたことに気づいていなかったらしい。微かに顔を赤らめ、照れ隠しのように笑いながら、サーニャは首を傾げた。
「タータさん、今、暇ですか?」
「薪割りを喜んで引き受けるくらいには……」
「じゃあ、コニャックの町の郷土料理レシピでも伝授しちゃいましょうか?」
 悪戯を企む子供のような表情を浮かべたサーニャに、タータは一瞬だけぽかんとしてから――すぐに、面白そうに笑った。腕まくりをしながら、問いかける。
「良いんですか?」
「もちろん。まあ、肝心な部分は私がやっちゃいますけどねー。という訳で、ティグの皮むき宜しくお願いしまーす」
「これは……確か、ちょっと前に僕も食べさせてもらいましたよね。芋の空揚げですか?」
「そうそう、シャンディのおつまみにはティグのコニャック風フライが一番」
 握り拳によく似た褐色の芋を、タータに向けてぽんぽんと手渡しながら、サーニャはにっこり笑った。
「多分、今日は賑やかな夜になりますよー。みんな、嵐で退屈し切ってますからねえ。しかも今日来てるお客さんたち、毎回毎回、全員がぐでんぐでんになるまで帰んないですし」
「はぁ、……でも、凄いですね。こんな風の中を歩いてくるなんて」
「あー、若い男の人って、寒さには耐えられても、退屈には耐えられないらしいですよ。ま、泣こうと喚こうと23時になったらお帰り願って戸締りしちゃいますから、実際寒空の下に放り出されてからはどうかは知らないですけど」
 酒場の賑わいが一段と大きくなり、冗談を交えたようなテラの高い声が、男達の笑い声を飛び越えて厨房まで響いてくる。慣れた手つきでティグを水に潜らせ、皮を剥きながら、タータは物珍しそうにちらちらと酒場へ視線を向けた。
「……面白いですか?」
「えっ? …ああ、そうですね。自分は、あまりこういう所に縁が無かったので」
「タータさん、そういや、酒場が賑わってる時って大抵、部屋に戻っちゃってるか、ロッソさんのところに行ってるかでしたもんねえ。あ、皮剥き終わりました? じゃあちょっと、小指くらいの太さで千切りしちゃってもらっても?」
 軽やかな足音が近づいてきたかと思うと、厨房と酒場を繋ぐ、腰までの高さの板扉が軋んだ。
「サーニャ、とりあえずティグ四人分を一番にお願いね。それからベーコンのチーズ巻きが二つ、あとは鶏肉の……って、何やってるの?」
 注文を書き留めた紙に視線を落としたまま足早に戻ってきたテラは、視線を上げると同時に、呆気に取られて固まった。声が1オクターブほど裏返る。対する二人は涼しい顔で笑っていた。
「暇だったので……」
「せっかくだからお願いしちゃいました。あ、テラ、注文の紙そこに留めといてね」
 竈の火加減を調節しているサーニャの横で、タータが起用に千切りの山を作っている。示し合わせたように口を揃えた二人に、テラは一瞬頭痛を襲われたような顔をした。
「宿泊料を貰ってるってのに、悪いじゃない」
 ぶつぶつ言いつつも、手早く四本のジョッキにシャンディを注ぎ、テラは風のように酒場に戻っていく。サーニャがくすくすと笑って、注文の紙に目をやった。
「あららー、やっぱり凄い量の注文来ましたね。まぁ、こっちとしてはその方が有難いですけど」
「他にもなにかお手伝いしましょうか?」
「じゃあ、ちょっと、其処の棚に胡椒の瓶とベーコンの束が入ってるんで、一束解いて胡椒振っといてもらえますか? そうそう、それですそれ。ティグのフライはあとは揚げるだけですから、私やっちゃいますねー」
 笑いながら、サーニャは竈の上の鉄板にさぁっと油を引いた。皿の上に山盛りされたティグの細切れを、卵で溶いた小麦粉に潜らせ、次々と鉄板に放り込む。卵と小麦粉の割合だとか、火加減のコツだとかをタータに細かく解説しながら、流れるように調理をこなしていく。
 油が跳ねるリズムに合わせて鼻歌を歌っていたサーニャは、ふと手を止めて酒場の方を見た。
 風の唸りを掻き消して、ひときわ大きな笑い声が酒場に反響する。何か言っている若者達に笑顔で手を振りながら戻ってきたテラが、厨房に入り、酒場からは見えない位置まで来たところで、溜息をついてテーブルを指し示した。
「ご指名」
「あー…来ちゃいましたか」
 仕方ないね、と呟いて、サーニャが肩を竦めた。怪訝そうな表情を浮かべたタータを振り返り、苦笑してみせる。
「タータさん、ごめんなさい。料理教室は今日はここまでみたい。あとはテラに任せちゃうから」
「はいはい。ほら、ちゃんとティグ持っていって」
「わかってますよう」
 カラリと揚がったティグの山を大皿にあけると、サーニャは足早に酒場へ出て行った。とたん、酒場が歓声に沸きかえるのが、厨房にいてもはっきりと聞こえてくる。
 気遣うような表情を浮かべて、タータの視線がサーニャの後を追った。
「……大丈夫なんですか」
「大丈夫ですよ」
 注文を確認しながらそれだけ呟くと、テラは小さく笑った。
 客とはいえ男四人。そこに女の子が一人。そもそも経営陣は女性だけ。改めて客観的に考えてみると、中々に酷い状況だ。いつも、これが当たり前だったから、心配されるなんて不思議な感覚だった。
「サーニャは、この町の中でも可愛い娘って有名だから。サーニャ目当てに来る客も多いんです。とくに若い人だと。でも、私達二人とも慣れてますから、大丈夫です」
 必要な料理の材料を手早く揃えつつ、滔々と言葉を続ける。まな板をもう一枚引っ張り出したところで、返事が無いことを訝るように、テラは顔を上げた。複雑な表情で、口を噤んだままのタータと目が合った。気遣えば良いのか憤れば良いのか、それとも踏み込まずに流すべきなのか――そんな逡巡がありありと顔に浮かんでいる。
 テラは苦笑して、同じ言葉をもう一度繰り返した。
「大丈夫です。一線は、私が絶対に越えさせません」
 ベージュ色のエプロンを、少しだけずらしてみせる。腰のベルト、右手を伸ばせばすぐに届く位置に、皮製のホルスターがぶら下がっていた。お飾りなんかじゃない、本物の、黒光りする銃の握りがホルスターから覗いている。
「伊達に、争いばっかりやってきた町で育ってないですよ。それに、私、結構色んなところに知り合いがいるので、私達に変なちょっかいを出そうとする人はこの町にはいません。よその町からの旅人が相手だとしても、自衛出来るくらいの備えはしてあります。……まあ、そんな訳なので。ごめんなさい、しばらくは騒がしいと思いますけど、勘弁してやってください。お手伝い、ありがとうございました」
 サラダ葉を洗いながら、笑いながら、視線だけで、客室へ続く扉を示してみせる。流石に、これ以上、タダ働きなんて押し付ける気にはなれなかった。
 タータは、しばらくの間、無言でテラと扉を交互に見やっていた。何かを考えるように、眉根に皺を寄せている。
「……テラさん」
「はい?」
「少し早いですけど、今日の夕食をお願いできませんか? テラさんの手が空いてからで構いませんので」
 やがて呟かれたのは、意外な申し出だった。手を止め、目を瞬いて、テラはタータを見つめた。浮かんでいる表情は、気遣わしげな、心配そうなもので、――少し考えてから、やっとそれがタータなりの気遣いなのだと気づく。夕食を食べるという名目なら酒場にいても不自然ではないし、宿の中に男性もいることを、お客達に知らせることが出来る。
 微かに微笑んで、テラはゆっくりと頷いた。







 風嵐は、それから三日も吹き続けて、ようやく終わった。――本格的な冬の到来だ。ただ食器を洗うだけでも、据え置きの水桶に張ってしまう氷を砕いて、溶かさなければ始めることが出来ない。
 冬の午後。もう、うっすらと橙色を帯び始めた日差しが差し込む厨房で、テラは、白く息を吐きながら作業に集中していた。竈の火で熱した鉄の棒を使って、緩み始めた氷をざくざくと砕いていく。風の唸りが止んだ夕暮れ時は、ひたすらに静かだった。氷を砕く音と、酒場の暖炉が微かに爆ぜる音しか聞こえない。
 随分長い間、ほとんど無心で手を動かしていたテラは、ふと、手を止めて、顔を上げた。一瞬、瞬きをして、すぐに視線を元に戻す。何も無かったかのように作業を再開して間もなく、酒場の扉が軋む音がした。
「ただいまぁー」
「おかえり」
 扉の鈴と、いつもどおり間延びしたサーニャの声、軽やかな足音。適当な返事をして、振り返りもせずに氷を砕き続けていると、ふいに、耳元に氷が押し付けられて、テラは短い悲鳴を上げて飛び上がった。
「あー、あったかいー…。もう、ちょっと外に出ただけでこの有様だよー」
「やだ、もう、なんでそういうことするの!? 人の耳で手の平暖めないで、もう! ほら、暖炉あるんだから、そっちにしてよっ」
「だってテラが振り返ってもくれないからー。なんでこんな寒いところでやってるの、暖炉のとこでやりなよう」
「私はこれから此処で洗い物と夕飯の準備が…、うわ、もういいから、わかったから、サーニャ、ちょっと、首は駄目っ、ほんと冷たいからっ、わかったわかった、暖炉の傍に行けば良いんでしょ!?」
 肩を竦め、笑い声を上げながらサーニャの手を払いのける。振り返ると、寒さで頬と鼻を真っ赤にしたサーニャが、むくれたように口を尖らせていた。大きな子どものような表情に、テラは呆れたように溜息をこぼした。
「すごい顔。…ほら、むくれてないで、戸棚から手桶持ってきて。水、暖炉の傍まで持ってくから」
「りょーかい。……全くもう。テラはね、もうちょっと自分の手のこと大事にしないとだめだよー。忘れてるのかもしれないけど、今、冬なんだからねっ」
 小さく鼻を啜りながらサーニャが持ってきた小さな手桶を受け取り、砕いた氷が浮かぶ水桶に潜らせる。
「言ってたもの、全部買ってこれた?」
「ちゃーんと、日持ちがする食材を大量に買いこんで来ましたよ。もしまた風嵐が来たって、十日間くらいは篭城できるくらい」
「一冬の間に二回も風嵐が来たら堪らないって……」
 テラは氷水を湛えた手桶を、サーニャは食材がつまったバスケットをそれぞれ抱えて、酒場まで移動し、暖炉の傍に腰を降ろす。
 バスケットの中身を改めながら、テラはほっとしたように息をついた。
「ん、確かに、これだけあればしばらくは充分かな。ありがと、サーニャ。……アーサーは元気だった?」
「うん。相変わらず。泊まってけって何回も言われちゃった」
 何でもないことのように、全くいつもどおりの声でサーニャが笑った。外がよっぽど寒かったのか、火の縁ぎりぎりまでにじり寄って両手を突き出している。言葉とは裏腹に、寂しそうに丸まった彼女の背中を見て、小さく笑うと、テラはバスケットに目線を戻した。恋人のことを話す時、サーニャはいつも拗ねたような色を瞳に浮かべる。きっと今もそんな顔をしているに違いない。
「泊まってきても良かったのに」
「嘘ばっかり。そしたら、テラ、心配して絶対に探しに来ちゃうでしょ」
「風嵐も止んだし、伝書鳥を飛ばしてくれれば流石に行かないよ」
「……本当は、それもちょっと考えたんだけど」
 暖炉の前で、サーニャが体勢を変える気配がした。
「テラに一人で留守番させちゃうのは嫌だなぁって」
「なにそれ。もう、私、子どもじゃないんだからね。ネリーさんだっているんだし…」
「分かってるけどぉ…」
 呻き声の混じるサーニャの声に、テラはくすくすと笑った。
 それきり、柔らかく会話は途絶えた。暖炉の火がぱちぱちと歌う音だけがよく聞こえる。バスケットの中身をひととおり数え終わり、テラは手桶を引き寄せて小さく揺すった。暖炉の熱で、氷は随分緩くなっているが、もう少し砕いたほうが良さそうだ。
 冷めてしまった鉄の棒を暖炉にくべていると、サーニャが思い出したように首を傾げた。
「そういえば、タータさんは?」
「今日はまだ、ロッソさんのとこにいるみたい。嵐でしばらく行けなかったから、薬の整理仕事が溜まってるんだって。月が出る頃には帰るって言ってたけど」
「はぁ、薬の整理…。ほとんど雑用じゃんねえ、それ。タータさん良い人だからなぁ、ロッソさんのところでも自分から進んでやってるんだろうなー」
「まだ働き始めて一ヶ月経ってないじゃない。薬の調合やなにかを任せるにしても、流石にまだ早いでしょ…」
 水桶の中を掻き回しながら、肩を竦める。そうかなぁ、なんて言って、首を捻っているサーニャに、念のため釘も差しておいた。
「タータさんが帰るのは夜だとしても……サーニャ? 客室の掃除、夕方のうちには終わらせといてね?」
「う、分かってますよぅー…。でもお願い、もうちょっとだけ暖まってから…。外、本当に寒かったんだからー」
「はいはい。良いでしょ、なんだかんだ言って買出し楽しみにしてるくせに。アーサーのお店に行けるーって」
「それを言われたらおしまいだよ……」
 サーニャが、何度か続けてくしゃみをして、鼻を啜った。……寒かった、というのも、あながち嘘ではないのだろう。彼女の肩からずり落ちかけている上着を引き上げてから、テラは、ぽん、と小さな背中を叩いた。
「風邪、引かないでね。もうちょっと火に当たってた方がいいよ。私は先に戻ってるから」
 水桶を抱えて立ち上がる。と、サーニャも顔を上げた。
「バスケット、いつものところで良い?」
「うん、棚のところに置いといてくれたら、夕飯準備しながら使えるし」
「了解。……あ、今日の夕飯、もしかして」
「正解。買ってきてくれたベーコン使ってキノコ炒め。…先週も作ったけどね」
 苦笑交じりのテラの声に、サーニャの歓声が重なる。テラは少しだけ調子に乗って、笑いながら、腰に片手を当てて胸を張ってみた。
「まあ、私が唯一、サーニャより美味しく作れる料理なんだし、ちょっとは気合入れて作ろうかな? ……時間が余ったら、お芋のデザートも一緒に作っちゃおうかな?」
「やったあ! タータさんも絶対喜ぶよ。こないだ食べた時、凄い美味しいって言ってたもん」
「そうだっけ?」
「言ってた言ってた! あ、そうだ、テラ、こないだのお礼も兼ねてさ、タータさんにテラ風キノコ炒めの作り方教えてあげようよ!」
 ……お礼?
 テラは、はた、と瞬きをして、サーニャを見た。私は何のレシピを教えてあげようかな――なんて、すっかりはしゃいで手を叩いていたサーニャも、すぐにその視線に気が付いて、首を傾げた。
「あれ? ほら、こないだ、あのうるさいお客さんたちが帰るまで、タータさん、ずっと酒場にいてくれたじゃない。私、どっかでなにかお礼しないとなーって思ってたんだけど……」
「――ああ、あの時の……」
 なんとなく、曖昧な返事になってしまう。確かに、酒場に残るという彼の気遣いは嬉しかったし、ありがたかったけれど、自分の中ではそこまでで終わっていた。お礼もあの場で伝えたし、それ以上まだなにかお礼をするというのは、逆に迷惑のような気もした。一応、客と宿主の関係な訳でもあるし……。
 うまく言葉に出来ずにくちごもっていると、サーニャが少しだけじれったそうな顔をして、先に口を開いた。
「…私ね、味方だって分かってる男の人が家にいるだけで、こんなに安心するものなんだなーってびっくりしちゃって。本当にありがたかったし、嬉しかったし……。どうせお礼するなら、テラと一緒に、わいわいしながら出来るようなお礼が良いかなぁなんて思ってたんだけど、…駄目かな?」
 心配そうな表情と上目遣いで見上げられて、テラは内心冷や汗をかきながら不器用に目を逸らした。サーニャは自分の武器をよく分かっているから本当に恐ろしい。この表情で一体何人の男を――いや、今は忘れよう…。
「それは、まあ…。私も嬉しかったけど…。ちょっと、恥ずかしいし、そういうのはサーニャに任せるよ。ほら、こないだだって、凄く上手に即席料理教室やってたじゃない? 私は教えるのとかあんまり上手くないし……」
「上手とか下手とか関係ないって。とにかくね、私、テラと一緒にタータさんにお礼したいの! で、それだとみんなで料理教室が一番良さそうなの! ねっ、おねがい!」
 ぱん、と両手を打ち合わせて、サーニャが両目をぎゅっと閉じた。
 途方に暮れて、テラはサーニャの旋毛を見下ろした。なんだかんだ、サーニャは母親に似て、とても頑固だ。一度決めたらそう簡単には翻してくれない。…で、ここまで熱心に食い下がってくるということは、彼女の中ではほぼ決定事項なのだろう。これ以上しぶっても体力を削るだけだ。
「………。別に、どうしても嫌だってわけじゃないし、そこまで言うなら、やっても良いけど……でも、ねえ、サーニャ。それ、そこまで大事なことなの?」
 さっきからずっと水桶を持ちどおしの右手が痛かった。水桶を左手へ持ち替えてから、痺れてしまった右手を振りつつ、溜息に言葉を乗せる。
「タータさんは、私たちの宿泊客だよ?」
「…分かってるよ?」
「サーニャがやろうとしてるのは、なんか…お客さんというより、友人に向けてやるようなことじゃない?」
「……そうかな。宿のお客さんとも一緒に仲良くわいわいしたい、って、そんなに変?」
「変とかそういうのじゃないけど…だって、それに――」
 サーニャ、恋人がいるのに、宿の男性客とそんなに仲良くなろうとして、良いの?
 喉元まで出掛かった言葉を無理やり飲み込んで、首を振る。サーニャにそんなつもりがないだろうことは、長い間傍にいた自分は良く分かっている。これじゃ、批判の顔を借りた唯の暴言だ。
「それに――サーニャは違うのかもしれないけど、私は、あまり、一線を越えるのが好きじゃないの」
 出来るだけ柔らかい声で言う。サーニャが、何度か目を瞬いてから、沈黙して、苦笑した。
「………そか。うん、そうだよね、テラは…。ごめん……私、浮かれて、忘れてた」
「いいよ。謝らないで。その…あんまり賑やかなのは無理だけど、ちょっとだけ…ほんとにちょっとだけくらいなら、三人で一緒にご飯作るのも楽しそうだし」
「…ほんと? ちょっとだけなら、やっても良い?」
「ちょっとだけだからね? ――ほら、サーニャ、そろそろ部屋の掃除行ってきなよ。おかげで私、いつもより気合入れて夕飯の準備しなきゃいけないんだから」
「えええ、私のせいなのー? 私が言い出す前から、テラ、今日はちょっと気合入れて作ろうかなーって言ってたじゃないっ」
「そうだったっけ? 忘れちゃったな」
 ようやく柔らかくなった空気に、お互いほっとしながら、笑いあう。酒場に差し込む日差しはいつのまにか、鮮やかな橙色になっていた。軽やかな足音を奏で、サーニャが階段を駆け上っていくのを見送ってから、テラは厨房に戻った。タータと、ネリーと、どちらが早く帰ってくるだろう、……ネリーさんが先に帰ってきたらちょっとめんどくさいな、なんて考えながら。

 結局、その後も様々な紆余曲折を経て。その日の夕食は、客の来る気配が全く無い酒場にいつもより早く閉店の札を掛けて、ちょっとしたパーティのようになった。
 テーブルの上には、各自が調子に乗って作りまくってしまったきのことベーコン炒めの山、山、山。ネリーが引っ張り出してきた酒瓶と、作り置きのパンを片手に、誰が一番美味しいか真剣な議論が飛び交ったり、笑いが飛び交ったり。酒が入ったサーニャは机をばんばん叩きながら恋人の惚気話を叫び続け、珍しく良い酔い方をしたネリーはずっと爆笑していた。テラはテラで、予想以上の料理上手を発揮したタータに、少しだけむきになって悔しがってみたり、タータも宿に泊まり始めてから初めて、大きな声で笑ったり――
 

「……参ったなぁ」
 まだ少し酔いの残る頭でぼんやりと後片付けをしながら、テラは呟いた。
 こんなに楽しく時間を過ごしてしまっては、仲良くなってしまっては、宿主と客の関係ではなく、友人の関係になってしまっては、…別れが辛くなるだけじゃないか。もとより彼は、旅の途中でこの町に足止めされているだけだというのに。

 季節は冬の盛り、春は、まだ遠い。


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